030903=天理ノムギ古墳、大型前方後円墳で最古級

天理ノムギ古墳、大型前方後円墳で最古級
3世紀後半に増築?

 初期ヤマト政権の大王墓が集中する奈良県天理市の大和(おおやまと)古墳群にあるノムギ古墳(全長六十三メートル、前方後円墳)が邪馬台国があったとされる三世紀後半頃に築造された可能性が高まり(平成15年9月)二日、県立橿原考古学研究所が発表した。邪馬台国の最有力候補地として前方後円墳など主要なものだけで約六十基が集中する大和古墳群一帯には前方後円墳が六基あるが、最古級の大型前方後円墳が確認されたのは初めて。
 前方後円墳は東海地方で発達し、邪馬台国と対立した狗奴(くな)国を象徴する墳形という説が有力。今回の調査は、東海地方との関係や初期ヤマト政権の構造を考える上で、貴重な資料になりそうだ。
 県道バイパス工事に伴って、ノムギ古墳後方部の東側約千二百メートルを調査。墳丘に沿って南北に伸びる周濠(長さ約五十メートル、幅約十メートル、深さ最大約1.3メートル)が見つかったり、周濠の底からつぼやかめなどの土器がまとまって出土した。
 土器は「布留(ふる)0(ゼロ)式」と呼ばれるもので、この土器の年代から、古墳の築造年代を割り出した。
 同研究所が平成八年に行った調査では、同古墳から四世紀半ばごろの円筒埴輪が出土。今回の土器より半世紀以上新しいことから、さらに調査して築造年代を絞り込む。
 現地説明会は、七日午前十時半から午後三時まで。JR桜井線・長柄駅から徒歩約十五分。奈良交通バス・佐保の庄から徒歩約十分。
 置田雅昭・天理大教授(考古学)の話 「魏志倭人伝には女王卑弥呼(ひみこ)を『共立』したとあるように、ノムギ古墳が築造されたころの初期ヤマト政権は、大和の勢力を中心としながらも各地域の豪族が集まった連合体だった。ノムギ古墳が『前方後方形』になったのは「被葬者が都会地方に出自をもっていたためではないか。」

平成15年9月3日(水)産経新聞掲載

030903=初期ヤマト政権解明の糸口、天理・ノムギ古墳

初期ヤマト政権解明の糸口、中心部にライバル後方墳
天理・ノムギ古墳


 奈良県立考古学研究所の発掘調査で(平成15年9月)二日、邪馬台国があったとされる2世紀後半に築造された可能性が高まった前方後円墳の奈良県天理市のノムギ古墳。前方後円墳は、邪馬台国と対立していた狗奴(くな)国のものとする説が強く、邪馬台国畿内説の中心といえる大和地方になぜ、ライバルの大型古墳が造られたのか。「後円」か「後方」かという違いは、単なる古墳の形の相違にとどまらず、邪馬台国やその後の初期ヤマト政権の権力構造を解明する上で、大きなカギを握っている。
◇東海の”影”
 初期ヤマト政権は、奈良盆地東南部の勢力だけでなく、吉備(岡山)などとの連合政権だったとされる。
 今回のノムギ古墳の調査結果によって、前方後方墳が古墳の主流を占めている東海地方の存在が、大和地方に大きく影を伸ばすことにことになった。
 赤塚次郎・愛知県埋蔵文化センター主査は、大和古墳群に複数の大型前方後円墳が築造されている点を指摘し、「東海地方がヤマト王権の主要メンバーとして積極的にかかわったことが明らかになった」と強調する。
◇狗奴(くな)国
 邪馬台国と狗奴国について魏志倭人伝は「(正始)八(二四七)年、倭の女王卑弥呼、狗奴国の男女と素(もと)より和せず」と記述。両国が対立し、戦争状態だったことを伝えている。
 ノムギ古墳が築造された三世紀後半は、すでにこの戦後の時期にあたる。赤塚氏は「狗奴国は戦いに敗れたかもしれないが、無条件降伏ではなかった」と推測する。
 最古級の前方後円墳に詳しい奈良文化財保存課の寺沢薫主幹は、前方後円墳を東海や狗奴国と結びつけるのには否定的だ。「前方後円墳は、ヤマト王権を築き上げた人たちのシンボルの墓で、明治維新に例えると薩長土肥のようなもの。一方、前方後方墳は、外様的な存在で前方後円墳の被葬者ほどの力はもてなかった」と話す。
 ◇東西に並ぶ
 ノムギ古墳の東約三十メートルには、ほぼ同時期の大型前方後円墳ヒエ塚古墳(全長百三十メートル)がある。邪馬台国と狗奴国をそれぞれ象徴するような古墳が、東西に「仲良く」並んでいることになる。
 古代中国では天を円形、地上を方形と考える『天円地方』という思想があった。
 石野博信・徳島文理大教授(考古学)は「前方後円墳の中心地に、最古級の前方後方墳があることに驚いた」としたうえで、「邪馬台国と狗奴国が戦後に手を結んだかどうかはわからないが、『天円地方』の思想など、二つの古墳の形に秘められた違いを考える上で、大きな手がかりになる」としている。
 千七百年以前、何が大和に起きたのか。専門家にとっても考古学ファンにとっても、古代へのロマンは尽きない。

平成15年9月3日(水)産経新聞掲載