国内初の獣頭人身像 キトラ古墳
石室東壁面 十二支の寅描く?
 
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 古代中国の四神(しじん)が石室内に描かれた奈良県明日香村の国特別史跡・キトラ古墳(7世紀
末〜8世紀初頭)の石室東壁面に,十二支の獣が人間の衣服を着ている「獣頭人身」像が描かれてい
ることが21日,分かった。文化庁などでつくる「キトラ古墳保存・活用調査研究委員会」(座長,藤
本強・新潟大教授)が発表した。寅(とら)とみられる。古代中国,朝鮮で被葬者を守ると考えられ
た十二支像が古墳壁画で確認されたのは国内初で,東アジアでも最古級。国内で唯一,四神がそろい,
世界最古の天文図が描かれている古墳で,また新たな図像が判明した。キトラ古墳が造られた律令国
家完成期の葬送への大陸文化の影響や,被葬者像を考察するうえで一級の資料といえそうだ。
 昨年(平成13年)12月に撮影した内部のデジタルカメラ写真を分析した結果,不鮮明な朱色の模
様が北壁に等間隔で3カ所,東西の壁に1カ所ずつ,それぞれ見つかった。いずれも四神より低く,
天井から50〜60センチメートルの位置にあった。
 詳細に見ると,このうち東壁の北寄りにある朱色のV字模様のほぼ真上に,寅に似た動物の目,鼻,
口らしきものが描かれていた。V字は襟を表しているとみられ,その下に衣服を着けた胴体らしい部
分も識別できた。
 四つの壁面に3本ずつ,全部の十二支が描かれていた可能性もあり,北壁の真中の模様が子(ね)
だと仮定すると,時計回りで3番目に位置するこの模様は寅の可能性が強い。
北と西の両壁にある計4カ所の朱色模様については動物の顔は確認できなかったが,模様はワラビ状
で,弓袋などの可能性があるという。
 文化庁は今年(平成14年)10月ごろまでに,石室内の空気の状態の急激な変化を防ぐため古墳全
体を保存施設で覆ったうえで,発掘調査と保存処理を始める。【記者:花岡洋二】
 
キトラ古墳石室東壁で確認された十二支の寅とみられる像 
 
十二支像
「子(ね=ねずみ),丑(うし),寅」など時刻,方位を表す十二支の動物像。随(581〜618年),
唐(618〜907年)など古代中国の墓の墓誌や,朝鮮半島を統一した新羅の王の墓を囲む石の表面な
どに彫られている。十二支の動物の顔と人の体を組み合わせた獣頭人身像も含まれる。
 
西暦2002年(平成14年)1月22日(火)毎日新聞
 
古代幻想 キトラ古墳 ギャラリー”飛鳥”
 
 わが国の古墳で初めて十二支像が確認された奈良県明日香村のキトラ古墳では,83年から4回に
わたって,ファイバースコープや超小型カメラ,デジタルカメラを使った石室内の調査が行われ,古
代中国の影響を受けた極彩色壁画の全容が次第に明らかになってきた。
 キトラ古墳は約1.2キロメートル北の高松塚古墳とともに7世紀末〜8世紀初めごろに築かれた。
遣唐使が中国から持ち帰った情報や,渡来人の力も借りながら「古代の文明開花」が行われた時期だ。
中国にならった初めての本格的な都城である藤原京が営まれ(694年),中国の法律を手本にした大
宝律令が施行された(702年)。
 キトラ古墳の石室壁面に描かれていた四神図は,中国や朝鮮半島の高句麗,百済の古墳壁画に多く
描かれており,天井の星宿(星座)図とセットになって古代中国の宇宙観を表した。今回確認された
十二支像とともに飛鳥の一等地に墓をつくった当時の支配層に大陸文化が深く浸透していたことをビ
ジュアルに物語っている。【記者:佐々木泰造】
天井の星宿 
西壁の白虎 
北壁の玄武 
南壁の朱雀 
東壁の青竜 
壁画の位置図 
 
◇キトラ古墳年表◇
72年3月 奈良県明日香村平田の高松塚古墳で極彩色の壁画を発見。古代史ブームに。発表後から,
同村安部山の塚山は古墳(=キトラ古墳)ではないかとの確認が広がり始める。
78年3月 同村真弓のマルコ山古墳の石室内部全面にしっくいがぬられているのを確認。初めてフ
ァイバースコープ調査が行われた。
83年11月 ファイバースコープ調査でキトラ古墳の北壁に玄武像を確認。
98年3月 小型カメラでキトラ古墳の壁画に青竜と白虎,天井に星宿図を確認。
00年11月 文化財保護審議会がキトラ古墳を国の特別史跡に指定するよう答申。
01年3月 デジタルカメラでキトラ古墳の南壁の朱雀を撮影。
01年12月 石室内部の撮影で天井の星は金ぱくを張り付けて表現していることを確認。
02年1月 石室東壁に十二支の寅と見られる像を確認。
 
西暦2002年(平成14年)1月22日(火)毎日新聞
 
被葬者 再検討迫る 高松塚との相違鮮明
 
解説 キトラ古墳の壁面に,古代中国文化を反映した十二支像が描かれていたことは被葬者論にも波
紋を投げかけそうだ。
 中国,朝鮮半島の影響を受けた極彩色壁画が描かれた飛鳥のキトラ古墳と高松塚古墳は,ともに7
世紀末〜8世紀初めごろの築造で,小さな円墳に凝灰岩を使った横口式の石室を設けていることや,
藤原京(694〜701年)の朱雀(すざく)大路を南に延長した「聖なるライン」上にあることなど類
似点が多い。
 壁画も四神を壁面に,星宿(星座)図を天井に描いている点が共通するが,キトラ壁画の詳細が明
らかになるにつれて相違点も浮び上がってきた。四神のうち朱雀が高松塚になかったのは石室南面が
盗掘者によって破壊されたためで本質的な違いではない。だが,高松塚では星宿が図式化されている
のに対して,キトラでは天文図として忠実に描かれており,明らかに表現が異なる。
 キトラ古墳の被葬者は所在地の地名の「安部山」などを根拠にした右大臣,安倍御主人(あべのみ
うし)(703年没)説,天武・持統合葬陵と同じく「聖なるライン」上にあることなどから天武天皇
の子の弓削(ゆげ)皇子とする説,朝鮮半島の百済(くだら)から渡来した百済王善光の子,昌成(674
年没)説などがある。いずれも,高松塚の被葬者とセットで論じられており,高松塚壁画との違いを
浮き立たせた今回の十二支像によって再検討を迫られる。
 高松塚に中国風とも朝鮮半島風とも言われる男女の人物群像が描かれたのに対し,キトラには中国
で生まれ,朝鮮半島でも独自の展開を見せた十二支像が描かれたのはなぜなのか。704年に第1陣が
帰国した第7回遣唐使との関連や,十二支像が描かれた朝鮮半島の統一新羅(668年成立)との関係
などを視野に入れて論議が再燃しそうだ。【記者:佐々木泰造】
 
西暦2002年(平成14年)1月22日(火)毎日新聞
 
石室満たす 貴人の印 キトラ古墳
「あらゆる思想凝縮」十二支登場で百家争鳴
 
 四神に加え,十二支の寅(とら)とみられる「獣頭人身」像の絵が見つかった奈良県明日香村のキ
トラ古墳(国特別史跡)。21日開かれた同古墳の保存・活用の方法を話し合う調査研究委員会に集ま
った研究者らは驚きの声を上げた。また,描かれた十二支像は古代中国文化が源流とされることから,
大陸との文化交流や被葬者などについても,論議が深まりそうだ。【記者:服部正法,沢木政輝】
 
 委員会が開かれた明日香村の福祉施設会議室。「寅のように見える像が写っている」との説明に,
各委員は手元に配られた写真に見入った。「これが目か」「衛士(えじ)などの人物像が描かれてい
るはずでは・・・」。研究者たちは驚きの声を上げ,委員会終了後も論議する委員の輪ができた。
 調査研究委員で,写真を詳細に検証した河上邦彦・奈良県立橿原考古学研究所副所長(考古学)は
「十二支は,還暦という言葉もあるように,『人の一生』を表現するものとして,中国の南北朝時代
(439〜589年)ごろから,墓の中の飾りなどに用いられた」と説明。天文図と四神に,十二支が加
わることは「中国の思想体系を理解して描かせたものだろう。当時のあらゆる思想が凝縮されたすば
らしいものだ。」
 猪熊兼勝・京都橘女子大教授(考古学)は「天文図,四神,十二支という『ロイヤル(貴人の)マ
ーク』が幾つも重ねられている」と,被葬者の地位の高さに言及した。
 被葬者を朝鮮半島の動乱で亡命してきた「百済王の一族」と推測するのは,千田稔・国際日本文化
研究センター教授(歴史地理学)。「古墳の周囲に十二支の石像を彫る風習が新羅にある。古墳の内
と外の違いはあるが,明らかに渡来系の人物の墓」と分析。「四神の壁画自体,キトラと高松塚の2
例しかなく,日本では例外中の例外。キトラは高松塚より古く,渡来した時期に近いため,より朝鮮
半島の伝統文化に忠実で,十二支を描いたのでは」と話す。
 また,上田正昭・京都大教授(古代日本・東アジア史)は「被葬者は,朝廷でも,かなり開明派の
人物だろう。古墳築造の7世紀末は,遣唐史外交の途絶えた時期で新羅との関係が緊密だった。新羅
を媒介として伝わった」と推定する。
 直木孝次郎・大阪市立大教授(古代史)も「天武・持統朝は,新羅との外交が活発な時期。被葬者
は7世紀末に死んだ天武天皇の皇子,弓削(ゆげ)皇子の可能性が高い」と推理した。
西暦2002年(平成14年)1月22日(火)毎日新聞
 
 
 新羅の墳墓に類似像
 獣頭人身像や,十二支に動物を充てる思想の源流は,いずれも古代中国。しかし,十二支像として
墳墓の装飾に用いるのは,朝鮮半島の7世紀以降の王墓でも盛んに行われた。
 獣頭人身像は中国の漢や東晋の墓の壁面に描かれた神仙図の中に登場する。子(ね),丑(うし)
など十二支は,もとは単に時間・方位を示す漢字だったが,それをつかさどる神的存在としてネズミ,
ウシなどの動物を充てる習慣が唐代に流行した。ぞれぞれの漢字になぜ,これらの動物が充てられた
かは不明だ。
 十二支像は7世紀,朝鮮半島を統一した新羅の王墓を囲む石面に,浮き彫りの題材として使われる
ようになる。いずれも墓のそとを向いていることから,死者の魂を鎮め,守る意味とみられ,中国の
十二支思想に新羅古来の思想が融合して生まれたとみられる。新羅の首都だった慶州周辺で十数例が
確認されているが,朝鮮統一に活躍した金痩信将軍の7世紀後半の墓の浮き彫りが古いものとして知
られる。
 この影響は日本にも伝わった。奈良市の「聖武天皇皇太子那富山(なほやま)墓」の四隅に建てら
れている「集人石」には卯(う),酉(とり),午(うま),子の獣頭人身像が彫られている。朝鮮半
島の影響を受けて奈良時代に作られたとみられている。【記者:皆木成美】
キトラ古墳石室に描かれた像について論議したキトラ古墳保存・活用調査研究委員会=奈良県明日香
村で(平成14年1月)21日午後1時
韓国・金痩信墓の十二支像の寅(拓本)=大阪府立近つ飛鳥博物館の平成13年度秋季企画展「モノ
クロームの守り神」(図録)より
 
西暦2002年(平成14年)1月22日(火)毎日新聞
 
 
キトラ古墳 天井天文図
国内初 日輪にカラス 石室北壁 ネズミの目、鼻、耳も
 
 奈良明日香村のキトラ古墳(七世紀末−八世紀初)の石室の天井にある現存最古の本格的な天
文図の日輪(太陽)の中に、カラスとみられる壁画が描かれていたことが(平成14年2月)二
十五日、分かった。
 日輪の中に描かれたカラスは、古代中国、朝鮮半島の古墳などに例があるが、国内の古墳で見
つかったのは初めて。
 文化庁の同古墳保存活用調査委員会メンバーの河上邦彦・県立橿原考古学研究所副所長は「古
代中国で太陽の象徴とされる三足烏(三本足のカラス)を描いた可能性が高い」と話している。
 また、石室北壁の玄武の下方中央で確認されていた襟とみられる朱線の上の部分で、ネズミの
目や鼻、耳らしい輪郭も新たに見つかった。河上副所長は「十二支の子(ね)の像に当たり、四
方の壁を三体ずつの十二支像が時計回りに描かれていた可能性が強まった」としている。
 文化庁が昨年十二月に撮影した石室内の写真を、河上副所長が検討した結果、天井東寄りある
金ぱくの日輪の中に、カラスの黒い尾羽や翼、二本の足のようなものが描かれているのが確認さ
れた。
 
平成14年(西暦2002年)2月26日(火)産経新聞
 
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