031120=直径50メートル超の円墳と確定 藤ノ木古墳

直径50メートル超の円墳と確定 藤ノ木古墳
形状説に終止符 東側で墳丘すそ確認


 斑鳩町教育委員会は(平成15年11月)十九日、同町法隆寺西二丁目の国史跡藤ノ木古墳(六世紀後半)の第五次発掘調査結果を発表。円墳説と前方後円墳説との両説があった同古墳の形状が、直径五十メートルを超える大規模な円墳であることが分かった。町教委は「史跡整備事業に向けての貴重な基礎資料を得られたことで、意義深い調査となった」としている。

 調査は古墳の史跡整備事業に伴い、古墳の形や規模の確認を目的に、九月一日から町教委と県立橿原考古学研究所の共同で行った。調査面積は墳丘の一部と古墳周辺部合わせ約四百二十平方メートルで、計五カ所のトレンチ(調査溝)を設営した。
 古墳周辺部の郭トレンチからは、墳丘の盛り土など前方後円墳の前方部の形状を示す痕跡は見つからなかった。さらに古墳東側から、自然にたい積した礫層(れきそう=石の層)を、不整な円弧上に切り出した斜面を確認。古墳築造時に礫層上に盛り土を行ったと考えられ、昭和六十三年の第二次調査で円墳と想定した場合のラインとも合致し、墳丘のすそを示すものとみられる。
 古墳の西側や南側からは確認できなかったが、現在の墳丘部から東側にすそが膨らみ、これまで推定されていた直径四十八メートルより大きい直径五十メートル超の円墳であることを確認。大型横穴石室をもつ円墳としては、牧野古墳(広陵町)や塚穴山古墳(天理市)に次ぐ大規模な古墳。
 また、古墳東側からは、円筒埴輪片や形象埴輪片が多数出土。石室前方部に位置することから、埴輪祭祀(さいし)が行われていたことも確定的になった。
 現地説明会は二十二日午前十時から午後三時まで。小雨決行。
問い合わせは斑鳩町教育委員会生涯学習課、電話0745(74)1001、内線236-238。

写真=発掘調査で見つかった墳丘のすそを示す礫層(研究員のいる所)。後方が現在の墳丘=19日、斑鳩町法隆寺西2丁目の藤ノ木古墳

藤ノ木古墳
 法隆寺の西約三五〇メートルに位置する古墳時代後期の古墳。昭和六〇年に第一次発掘調査が行われ、未開棺の家形石棺を安置する横穴式石室が見つかった。四次にわたる調査で、華麗な金銅装馬具や太刀などの副葬品が見つかったり、全国的に話題を呼んだ。

石室守る寺の施設か
「宝積寺」墳丘削った跡確認


 発掘調査では、古墳南側に江戸末期まで存在した「宝積寺」の初めての考古学的調査も行われ、墳丘の一部が削り取られていたことが分かった。同寺の創建時期や建物の存在などは不明だが、墳丘を削りとった跡は、石室を守る寺の施設の存在をうかがわせる。古墳が千四百年間、未盗掘で、華麗な金銅装馬具や太刀などの副葬品が守られた可能性もある。
 宝積寺は平安時代末期から文献に登場し、江戸末期に火災で焼失したと伝承。中近世の瓦など寺の存在をうかがわせるものが墳丘の踏査調査でも見つかっている。
 古墳時代の陵墓のそばに建てられた寺では、聖徳太子墓とされる大阪府太子町の叡福寺があるが、全国的にも珍しいという。
 調査は、宝永六(一七〇九)年に記された古文献「宝積寺境内図」をもとに、寺の推定地である古墳南側で実施。柱の礎石の穴や掘っ建て柱建物穴などの寺の建物を示す遺構は見つからなかった。中世の柱穴と考えられる遺構は確認されたが、同寺との関係は不明だという。
 しかし、これまで墳丘と考えられていた斜面が、近世以降に盛り土により墳丘のように造成されていたことを確認。盛り土層に焼けたような痕跡が見られたことから、江戸時代の寺焼失を裏付けるものと注目される。
 斑鳩町教委の平田政彦技師は「墳丘を削るほど大規模な土木工事を行ったのは、石室を守るためだったのでは。藤ノ木古墳が千四百年の間、未盗掘だったことを考えると興味深い」としている。

平成15年11月20日(木)奈良新聞掲載