吉備地方特有の土器片
箸墓古墳で大量出土
3000点、交流裏付け−築造年代特定へ一級資料
 
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■ 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある巨大な前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」
(奈良県桜井市)の墳丘部から、吉備地方(現在の岡山県)で主に出土する特殊な土器や、
最古型の埴輪などの破片が三千点以上出土していたことが平成12年5月17日(水)、宮内
庁の調査でわかった。箸墓古墳は今年3月、邪馬台国が存続していた三世紀前半ごろで最
古の古墳と確認されたホケノ山古墳に隣接し、三世紀後半に築造されたとの説がある。し
かし、宮内庁が陵墓として管理しているため、発掘は規制され、これほど大量の遺物の出
土は今回が初めて。被葬者と吉備地方の勢力が深く関わっていることを改めて裏付けると
ともに、箸墓古墳の築造年代を特定する一級の資料。邪馬台国の所在論争にも影響を与え
そうだ。
 
 宮内庁書陵部の報告によると、今回確認されたのは土器や埴輪などの破片三千数百点。
これらの遺物は、平成10年9月の台風7号の強風により、古墳の墳丘に植えられた木が
倒れ、その整備事業の際に、倒れた木の根元の土から採取されたという。ほとんどが前方
部と後円部の墳頂平坦部からの出土だった。
 後円部で出土した土器には、「特殊器台」という吉備地方の墳墓に供献された大型の土
器が含まれていた。「特殊器台」は弥生時代後期に吉備地方で出現。古墳時代になって円
筒埴輪に変化したことが確認されている。
 箸墓古墳から出土したものは、サイコ型式の埴輪に転化する直前のタイプで、奈良県で、
は中山大塚古墳(天理市)、弁天塚古墳(橿原市)、西殿塚古墳(天理市)などから出土。
岡山県の弥生時代終末期とみられる墳墓などでもはっけんされている。この古墳一体を中
心にしたとみられる初期ヤマト政権に、吉備地方の勢力が深くかかわっていた可能性が一
段と高まった。
 一方、前方部からは、瀬戸内沿岸地方にルーツを求めることができる複数の土器や二重
口縁壺など多数の埴輪が見つかっている。
 出土した土器の年代について、大塚初重・明治大学名誉教授(考古学)は「後円部の特
殊器台と前方部の埴輪には、考古学的な時間差があります。まず、後円部で埋葬時に吉備
の土器が供献され、5年か10年後、前方部で埴輪を置いて墓前祭のような葬送儀礼が行
われていたのではないか。箸墓古墳に一定の年代幅があったとみられ、箸墓の出現は3世
紀半ばごろまでさかのぼる可能性がある。」と指摘。
 大塚教授は「ヤマト政権が成立してきたことを示す重要な発見」と話している。
 寺澤薫・奈良県立橿原考古学研究所調査第一課長の話「これまでは少ない資料で箸墓古
墳の築造時期など考えてきたが、墳丘部でまとまった数の土器が採集され、箸墓古墳の埋
葬時期がはっきりするのではないか。」
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■箸墓古墳
 奈良県桜井市箸中にある全長280メートルの前方後円墳で、日本書紀には「昼は人が造
り、夜は神が造った」との記述も残る最古級の巨大古墳。宮内庁が倭迹迹日百襲姫命(や
まとととひめのみこと)の墓として管理しており、これまでに墳丘から採集した最古型式
の円筒埴輪片などわずかな遺物が公表されているのみで、実態は明らかになっていない。
平成9年には、桜井市教育委員会が後円部に隣接する土地を調査した際、周濠と大規模な
堤を確認。今年3月に最古の前方後円墳と確認されて注目を集めたホケノ山古墳から西約
200メートルに位置する。
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(平成12年5月18日(木)産経新聞掲載)写真はすべて南 賢一が撮影
 
桜井のイヅカ古墳 前方後円墳と判明
全長80メートル 箸墓に関連か 4世紀後半
 
 桜井市箸中、箸中イイヅカ古墳(四世紀後半)は全長約八十メートルの中規模な前方後円墳だ
ったことが、県立橿原考古学研究所の電磁波を使った地中探査で二十二日までにわかった。同古
墳は倭(わ)の女王・卑弥呼の墓説のある箸墓古墳(三世紀後半)の西に近接していることから、
子孫など箸墓古墳に関連した被葬者とみられる。この時期の前方後円墳の存在は箸墓周辺ではこ
れまで知られておらず、箸墓を築造した勢力の変遷を考えるうえで重要な資料になる。
 二〇〇〇年十二月までに行われた二度の発掘調査で、壊された円形の墳丘(直径約五十メート
ル)を囲む周濠(しゅうごう)を南と北側で確認。だが、全体を発掘せず、円墳か前方後円墳の
後円部か不明だったため、地中探査で墳形、規模を確認することにした。
 十二か所で探査機から電磁波を発射、跳ね返るデータをもとに地下の様子を調べ、コンピュー
ターで解析した。
 その結果、北側のくびれ部、前方部の南側を確認。前方部の西側はあまり明確ではなかったが、
現在の地形と併せて判断、箸墓古墳と同様、前方部を西に向けた約八十メートルの前方後円墳と
判明した。前方部南側の周濠(深さ・推定一メートル)は幅が五−十メートルと異なっていたこ
とから馬てい形の周濠だった可能性が高い。このタイプの周濠は古墳時代中期(五世紀)以降に
一般化するため、過渡的な要素とみられる。
 河上邦彦・同研究所副所長の話「箸墓古墳周辺にはもう大きな古墳はないと考えてきたので、
驚きだ。地中探査は一定の有効性はあるが、詳細をはっきりさせるためには、いずれ発掘する必
要がある」
 
平成13年(西暦2001年)4月23日(月)読売新聞
 
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