魅力あるCW
 
JARL NEWS 1999年3月号CWキーをデザインした表紙
あこがれの無線シャック
アイコムIC-780(右)のリグ(アイコムの広告雑誌より)

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縦振れ電鍵やマニュピレーターを配したQSLカード BENCHERキーを配したQSLカード
 
 
BENCHERキーを配したQSLカード 縦振れ電鍵を配したQSLカード
 
 
CW愛好を伺わせるQSLカード  KCJ全国CW同好会会員の公式QSLカード
 

アマチュア無線への憧れ(8J3RPF記念誌寄稿文)

                        JN3ANO 南  賢 一
 
 昭和63年(1988年)に奈良公園を中心にして、奈良シルクロード博覧会が開催され、特別記念局「8J3SLK」が活躍した。そして平成7年(1995年)橿原市藤原宮跡を中心にして「ロマントピア藤原京’95」藤原京創都1300年記念祭で記念局「8J3RPF」が活躍した。いずれも、世界の文化が交流した歴史ある奈良県で開催された。
 私たちが生活しているこの場所の大いなる過去に、世界の文化が盛んに交流していたことは、テーマどおり夢とロマンを感じる。その歴史ある地を会場にして行われたことにも誠に感慨深い。
 しかも、アマチュア無線のブースは、その会場の一角にあり、会場から直接、生の雰囲気を全国はもとより世界に伝えたことは大いに意味深い。交信相手の相互はアマチュア無線有資格者に限るが、オペレーターがいればいつでも、まさに無報酬で、趣味として、楽しく催物を広く紹介し、しかも、記念局と交信した人は綺麗なQSLカードがいただけ、JCCあるいはJCGをサービスしていただけるという点で、他の手段とは異なる相互情報通信手段であろう。
 パソコン通信やインターネットなど、これからますます情報通信手段は国際化・高度化していくであろうが、アマチュア無線は、マルコーニの無線実験から100年たち、空のコンデションに大いに影響される素朴で基本的な通信手段なのである。この点で、私はパソコン通信のIDももっているが、アマチュア無線にこの上ない興味を覚える。
 私は、小さい頃から通信に興味があったが、放送局に勤める夢も果たせず、アマチュア無線の開局は昭和60年、30歳を超えてからであった。しばらくは、430MHzバンドのFMだけに出ていたが、昭和61年に葛城ハムクラブに入会し、ハムライフが広がりパケットもはじめた。昭和63年、シルク博が開催され、運用の当番になった。たくさんのバンドのリグがならび、それぞれのバンドの無線の楽しさを知った。また、自分の資格で運用できないモードやリグがあることに、くやしさを感じた。
 この8J3SLKの運用は、大きく自分を変えた。必死な思いで、2級、1級と資格をとり、中古のリグを求め、インバーテッドVダイポールをはり、ささやかではあるが、HFの世界に足を踏み入れた。それからは、主にコンテストの電信部門に参加している。休みの日の都合のよい時間に、多くの局とQSOできる。べったんやビー玉集めのおもしろさがある。電信は、短点・長点だけで組み立てられ、単純である。電話のように、声の質や国のなまりはないが、電信にもなにかしら人の匂いはある。キーをたたいている人を想像するのである。気のよさそうな人、のんびりとした人、せっかちな人・・・、人がモールスに出る。単純であるがゆえに、ほんとうにおもしろい。
 葛城ハムクラブの一員として、ロマントピアのアンテナ建設に立ち合うことができた。広い場所に、まことにきっちりした仕事で、自分もこのようなアンテナを建てられたらと、憧れを感じた。5月初旬から1ヶ月の出張があり、少ししかお役にたてなかったが、すばらしい環境で気持ちよく運用させていただいた。パイルというのも、ちょっぴり味わうことができた。
 まだまだ、無線技術は未熟であるし、自分の設備も恥かしいものであるが、これから一生つきあえる趣味として、各局さんにご指導を仰ぎながら長く続けていきたいと思っている。
 

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1998年12月号CQ紙CWガイド特集の表紙
 

    祝 葛城ハムクラブ 25周年

− アマチュア無線への憧れ(JA3ZNJ 25周年記念誌寄稿文)

                        JN3ANO 南  賢 一
 私は、小さい頃から無線に興味があり、放送局に勤める夢をもったこともあった。アマチュア無線の開局は1985年、30歳を超えてからであった。しばらくは、430MHzバンドのFMだけに出ていたが、1986年に葛城ハムクラブに入会し、ハムライフが広がりパケットもはじめた。1988年、シルク博が開催され、運用の当番になった。たくさんのバンドのリグがならび、それぞれのバンドの無線の楽しさを知った。また、自分の資格で運用できないモードやリグがあることをくやしく思った。
 
 
〔8J3SLKの運用〕
 
 この8J3SLKの運用は、無線への興味を広げた。必死な思いで、上級資格をとり、中古のリグを求め、インバーテッドVダイポールをはり、ささやかではあるが、HFの世界に足を踏み入れた。それからは、主に国内コンテストの電信部門に参加している。休みの日の都合のよい時間に、多くの局とQSOできる。べったんやビー玉集めのおもしろさがある。電信は、短点・長点だけで組み立てられ、単純である。電話のように、声の質や国のなまりはないが、電信にもなにかしら人の匂いはある。キーをたたいている人を想像するのである。気のよさそうな人、のんびりとした人、せっかちな人・・・、人がモールスに出る。単純であるがゆえに、ほんとうにおもしろい。

 
 実は、電信による交信に慣れるまで相当時間がかかった。1988年10月から89年4月までは、ひたすらワッチをした。やがては、電信による交信ができるように、すべて書きとった。どういう会話が行われているのか、記録した。まるで、それぞれの交信で自分がその交信相手になっているかのような気持ちで。

 
 度胸のない私は、何でもそうである。一段階ずつ踏みしめて自信をつけていくのである。恥ずかしいことだが、スキップや鉄棒の逆上がりができるまでや、プールの中で歩き回っているのから足をつかずに泳げるようになるまでにかなり時間がかかった。自動二輪免許もすぐにはとれずに、原付でたっぷり慣れてからだった。無線従事者免許も電話級から1級まで一段階ずつとっていった。とても足下には及ばないが、今、無線を楽しませていただいているのは、師匠ともいうべきJA3MQY木村氏の辛口かつ一刃両断の助言が大きい。『2級をとったら次は1級に挑戦しろ』、『マニュピレーターは左手でやれ』という助言は特に自分にとってきびしかった。
 
1994年10月9日五條市移動(JA3MQYさんと)


 1989年の4月から10月までは、ゆっくりした電信のCQステーションを見つけては交信を挑み、1日1局以上を目標に交信した。自分ながらうまくいったものあり、汗が吹き出すようなものあり、恥はかいても初心者だからと思ってひたすら相手を見つけた。その時相手してくださった局にはたいへん感謝する。8月には呼ばれたりして結構自信をもてるようになってきた。さて、毎土・日曜にはコンテストが行われているのに気付いた。

 スピードが速く近付きがたかったし避けていた。しかし、スピードにも少しずつ慣れるにしたがって一度コンテストにも出てみたくなった。

 はじめてのコンテスト参加は、1989年10月のJARL全市全郡コンテストである。CQは出さず、ひたすら呼びにまわった。その単純明快さと、数を集めること、スピード感になにかスリルと感激を覚えた。コンテストの集計結果が出て、いくら1点でもJARL NEWSに自分のコールサインが載ることに嬉しさを感じている。自分の無線設備(リグ、アンテナ、ロケーション、通信技術)からして、全国優勝や上位入賞はできるはずはないが、参加することが楽しい。JARL NEWSが届くと、コンテストの日程とコンテスト結果をさっそくチェックしてしまう。

 コンテストの提出ログは、はじめは手書きであったが、1989年11月のJA9コンテストHF部門からはコンピュータ入力し、重複やマルチチェックし、プリンター出力しそれをJARLコンテストログ用紙に重ねコピーするといった方法で作成した。1994年からはコンテストログもJARL様式のものを帳票印刷で出力している。コンテストごとの多様なマルチチェックを一括処理でさせているが、非常に快適である。

 コンテスト中のログは、ノートに書いていた。何ページかにわたるとその重複チェック
はかなりの労力を要する。時間を競うコンテストでは、もっと素速く重複チェックしたいということで、コンピュータに入力してチェックするプログラムをBASICで組んだ。
1993年になって、メモリーキーヤーCW−620をコンピュータで動かして、CQやコンテストナンバーの送信をキー1つでやるプログラムをやはりBASICで組んだ。これは、JA3ZNJが参加したWWコンテストでDOS/V版の『CT』というコンテストプログラムを使わせていただいたのがきっかけである。その便利さを使いたかった。今、『CT』ほど優秀ではないがコンテストの重複チェック、CQ、コンテストナンバーの交換がキー一つでやってくれて、あとコールサイン、交信時間、コンテストナンバー、周波数、モードが記録され、ログになる。非常に快適で気にいっている。

 葛城ハムクラブの一員として、無線はもちろん、いろんな遊びを教えていただいた。まさに個性の集まりでおもしろい。移動運用やいろんな行事が楽しみである。それぞれに印象深い。私が入会した頃に比べ、家族連れの参加が多くなってにぎやかである。名簿には載っているが、拝見しないクラブ員の方がいらっしゃる。連絡用のパケットはあるが、これも見たりアップする人は限られている。1991年の移動運用の後の反省会の時だったか、JH3KCW吉川氏と話していてクラブニュースなるものを発行してはと、意見が合った。吉川氏も同じことを考えていたらしい。クラブ行事の案内や行事のようすを知らせたり、パケットでの話題が主な記事として、発行を重ねてきた。いったんプリンターで印刷したものを切り貼りして原稿をつくる。今の時代、原始的であるが、そのほうが全体を見渡せて、私としてはやりやすい。何でも継続するというのはいいもので、すでに発行したニュースをながめては、ニヤニヤしている。皆さんの記事がおもしろい。これからも皆さんのご協力を得て、ぜひ続けていきたい。
 
 私の無線技術はまだまだ未熟であるし、設備の充実は一歩一歩これから気の長いものであるが、一生つきあえる趣味として、みなさまにご指導を仰ぎながら長く続けていきたいと思っている。クラブ員の皆さまの幸せと、『葛城ハムクラブ』がますます発展していくことを祈っている。


 
 
 
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